物事には「謎」が存在します。
これを放置するか、解決するか、「謎」に対するスタンスは人それぞれです。
僕はこの「謎」に対する“取り組み方”が独特と言われています。
教育には「内」と「外」があり、僕が特殊なのは、教育を“然るべき場所”で受けて来なかった在野の「外道」だからでしょう。
僕の「謎」に対する追求は、人の速度とも合わないし、質的にも、変てこりんなものかもしれません。
でも、自分なりに手探りで解決してきましたし、これからもそれは止むことはないでしょう。
思えば、私は孤独でした。
星作品と出会ったのは19歳、1989年、元号は昭和から平成へと変わり、バブル経済華やかりし頃のこと。
大学入学と同時に上京し、その生活に馴染めず、5月に5月病にかかって引き蘢り、気付けば、風呂にも入らず、そのまま年を越し、「自分を殺すか、人様を殺めるか…」とか、そんな幼稚な発想に耽溺していた時でした。
人と接するのも、見るのも嫌、でも、腹は減る。
無け無しの金も、食べ物に使ってしまう。
ありがちな青春期の挫折には、「小説」とか「映画」とか処方箋が必要です。
ところが僕は本も、映画もそれまでほとんど見ること無く育ってきた田舎者の頭の悪い子。
読み方もわからないものに金を払うなんて発想はついぞなく、文化に救われるロマンすら持ちようがなかったわけです。
で、腹が減る、メシは喰う、人を呪う、排泄をする。
繰り返す。
これは自分でも情けなかった。
どうやってこのサイクルを抜け出すのか。
人脈は当然使えない、女に頼るなんて無理も無理、映画も音楽も意外にコストがかかります。
そんな拠ん所ない僕を導いたのは、古本屋だけでした。
昔、どこにでもあった“街の古本屋”にふらっと立ち寄った時のこと、何気なく手にした本が『ボッコちゃん』でした。
実は、この古本屋には前から通っていたのですが、何せ高校卒業までに本という本を一冊も読んだことが無かった少年です。
小説の類いは難しいし、もっと人懐っこい想定のサブカル系の本は、意外に情報量が多く、植草甚一も、東京12チャンネルも、宝島も、ビックリハウスも知らない無教養な田舎っぺには知らない単語が多過ぎでした。
そこでも疎外感を感じざるを得なかった。
本当に今となっては何故星新一だったのか。
タイトルがカタカナだったからとか、その程度の理由だったのでしょう。
しかし、とにかく僕はこのタイミングで本を読み出すことになるのでした。
つまり、そういうことだと思うんですよね。
僕みたいな文盲すれすれの人でも読める、否、単に読めるだけじゃない「感覚」を与えてくれるんです、星作品て。
僕は「構造」が好きです。
これは星作品で強化されたと思ってます。
これをこう振ると、こういう効果が得られるとかそういうのが好きなんですが、こういうミスディレクションを、心理的にはもちろん、時には視覚という物理をうまく操作、錯覚させるかのように引き起こす、文章の中にはそんな理系的なテクニックがあるということを、星新一作品で知りました。
ただ、それも20代までの話で、40代になった今、改めて読み返してみると、そういう構造だけじゃなくて、人の機微、情感みたいなものが裏側にあるのが見えて、「俺、相変わらず文盲じゃん…」と愕然とするのです。
きっと化学式のようなものなのでしょう。
単なる数式ではなく、星氏の意図したものは、化学変化をも含むものなのかもしれません。
僕の周囲には問題が多くあります。
僕はその度に、題を見つけ、解いていく。
僕の速度で、僕なりのやり方で。
その時のやり方、考え方には癖がついており、どうもその癖は星新一氏につけられたものだと思うのでした。
2014年1月
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