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星新一を知るための70のキーワードをやさしく解説した事典です。
編・江坂遊
イラスト・新橋学
あ行か行さ行た行な行は行ま行や行ら行わ行
【あ行】
アイザック・アシモフ
第二次世界大戦後、アメリカでSFが大人気になったとき、その人気をささえ、黄金時代をきずいた作家のひとり。 ロボットが人間社会でまもるべき「ロボット工学の三原則」を考えたことでも有名。 星新一はアシモフが書いたアイデア発想法に深く感動した。 知っていることをふやしていき、その切れはしを組みあわせ、それがそのあとどうなっていくかを考えていく、というもの。 星新一の編訳で「アシモフの雑学コレクション」という文庫が新潮社から出ている。 作品に「われはロボット」「銀河帝国の興亡」「永遠の終り」がある。
新井素子(あらいもとこ)
昭和52年(1977年)、高校2年のときに第1回奇想天外SF新人賞に応募した「あたしの中の……」が選考委員の星新一に絶賛されてデビューした作家。 しゃべり言葉で書かれたような応募作に面食らったひともいたが、星新一はこの点を評価し、新井の小説をずっと支持し、気にかけていた。 「チグリスとユーフラテス」で第20回日本SF大賞を受賞している。 作品に「グリーン・レクイエム」「おしまいの日」ほか、また星新一作品のアンソロジー「ほしのはじまり 決定版星新一」の選者をひとりでつとめた。
宇宙塵(うちゅうじん)
SFが大好きな人があつまって昭和32年(1957年)に第1号をだした雑誌。 星新一は第2号にデビュー作となる作品「セキストラ」を書いている。 昭和37年(1967年)5月にひらかれた第1回日本SF大会は「宇宙塵」創刊5周年をお祝いしてのものだった。
宇宙船シリカ(うちゅうせんしりか)
昭和35年(1960年)9月からNHKテレビではじまった人形劇。 ピロ少年とボブ船長が事件を解決していく。 もとになった話を書いたのが星新一で、人形は竹田人形座、交響曲(森鴎外がシンフォニーを日本語にやくした言葉で、大規模に管楽器や弦楽器で演奏される曲のこと)のような音楽は日本が世界にほこる作曲家・冨田勲がうけもった。
エジソン
電球を発明したことで有名な発明王。 1847年アメリカのオハイオ州ミラン生まれ。 父・星一は大正11年(1936年)にアメリカでエジソンと会い、話がとてもはずんだ。 サインつきの肖像(姿をうつしとった)写真をもらい、それを自分の会社の事務所や工場にはった。 星新一は、子供のころ、父・星一からよくエジソンの話をきかされていた。
SF(えすえふ)
サイエンスフィクション(空想科学小説)をみじかくしたよびかた。 もしも……ならとかりに考えてみて、それがほんとうに起こっているかのように書かれる小説のことをいう。 SF専門の雑誌として「SFマガジン」が出版されると、どんどんあついファンがふえ大きなもりあがりをみせた。 のちに、Fの意味にファンタジーをあてたり、(S)すこし(F)ふしぎといいかえたりもされている。
SFマガジン(えすえふまがじん)
昭和34年(1959年)12月に早川書房から創刊され、今なおつづいている月刊誌。 日本では有名なSF専門誌であり、星新一もはやくから作品を発表している。 この雑誌は小松左京筒井康隆など人気SF作家をたくさん生みだすことになった。
江戸川乱歩(えどがわらんぽ)
大正から昭和の時代にかけて、推理小説(ミステリ)を日本中にひろめ、多くの新人を有名にする手だすけを積極的におこなった小説家。 星新一も乱歩が雑誌「宝石」編集長時代から才能をみとめられ、作品発表のチャンスをもらったひとり。 「怪人二十面相」「二銭銅貨」「パノラマ島奇談」などの作品がある。
エヌ氏(えぬし)
星新一の作品にはカタカナ書きのアルファベットで名前をつけられた主人公がでてくるものがある。 なかでもエヌ氏というのが多い。 この人はこんな人でとあれこれ書かないようにすることで、物語そのもののおもしろさをぐっと強めることができる。
エヌ氏の会(えぬしのかい)
星新一のファンクラブ。 名古屋の中部SF同好会の会員で、サラリーマンだった林敏夫と森輝美が昭和48年(1973年)にはじめ、「ホシヅル通信」という会報を出して星新一を応援した。 「星コン」とよばれたファンの集いに星新一は積極的に参加した。 星新一がショートショート1001編書こうと考えたのは、会長の林敏夫が作品リストをつくって作品数をかぞえたからだといわれている。 発足当時からの会員、高井信はその後、作家となった。
オチ
ショートショートは、「新鮮なアイデア」(おもいもつかないものがでてきたり、ふしぎなはじまりかたをしたりすること)、「完全なプロット」(物語がうまくすすめられていること)、「意外な結末」(アッとおどろく終わりかたをしていること)の三つがそなわっているものとされている。 この「意外な結末」という言葉は、落語でよく知られた言葉の「オチ(落ち)」と同じように使われることが多い。 また「サゲ(下げ)」といわれることがある。 「オチ」はお話のいちばんおわりになければならないということでもないので、この二つをわけて使う人もいる。
【か行】
(かぎ)
「鍵」は日本推理作家協会賞を受賞したショートショート集「妄想銀行」の中の1作で、星新一作品の中でこれが1番好きだという人がたくさんいる。 歳(とし)をとってくると、なるほどとわかってくるので、なんどでもよみかえすといい。 鍵をひろうことができる人は幸せだ。 はたしてきみもこの主人公のように、すてきな人生最後の名セリフをいえるようになるだろうか。
火星年代記(かせいねんだいき)
SFが知られるようになったはじめのころから人気のあるアメリカの作家レイ・ブラッドベリの代表作。 さまざまな、かわったみじかい話をつなぎあわせ、それが1本の長編作品になっている。 人間が火星にうつり住む未来の話。 「火星年代記」は日本では最初、昭和31年(1956年)に「火星人記録」というタイトルで発行された。 翌年1月、星新一はこの本を読み、「コンナ面白いのはめつたにない」と日記に書いている。
北杜夫(きたもりお)
精神科(せいしんか)の医者として仕事をしながら小説を書きはじめ、やがて「どくとるマンボウ航海記」で人気作家になった。 昭和50年(1975年)10月に星新一は作家の大庭みな子、北杜夫といっしょに、日ソ友好協会にまねかれソビエトを旅行した。 それから大へんしたしくなり、北杜夫のエッセイに星新一は何度もでてくるようになった。 のちに北がおもしろがって日本から独立した国、「マンボウ・マブゼ共和国」をつくったとき、星新一は北から文華勲章(ぶんかくんしょう)をもらっている。 「夜と霧の隅で」「幽霊」「楡家の人びと」などの作品がある。
気まぐれ指数(きまぐれしすう)
星新一が書いたはじめての長編小説。 ショートショートを読んでいるような、どんでん返しがつづき、気まぐれからはじまり、最後も気まぐれでうまく話がまとまる。 ドラマ化もされた。 さりげなく、はさまれているピリッとした言葉もたのしめる。 「役にたたないからこそ、宝なのだ」などは会話の中で使ってみると相手をニヤリとさせることができる。
きまぐれロボット
博士や発明家がおかしなものを発明したり、宇宙人がやってきたり、ロボットがあばれたりとお話が子供向けにまとめられていて、わかりやすい作品がそろっている。 童話のような星新一らしいショートショート集。
(ご)
ふたりが板の上に黒い石と白い石を交互においていき、石でかこんだ広さをきそうゲーム。 囲碁(いご)ともいう。 星新一は大学3年のころから碁をうちはじめ、文壇二段(小説家などで碁をうっている人たちの中での強さのくらい)としてみとめられるまでになった。 碁がおもしろいのは、相手の目をパチパチさせる思いがけない場所に石をおくことができるからと考えていた。 それは外国のすぐれた短編小説を読むたのしさと同じで、予想もしないことがおこって、やられたなと感じるときとよくにているからとのことだ。
声の網(こえのあみ)
今のインターネットの便利さを予言したような作品。 けれど、見知らぬだれかにいつも見はられているようなおそろしさを感じるようになったりする問題や、人間を支配する網がどんどん広げられていくおそろしさがえがかれている。 昭和41年(1969年)にそんなことをはやくも書いたことにおどろかされる。 この作品はフレドリック・ブラウンの「回答」というショートショートにつながっているおもしろさもある。 さらに作品のくみ立て方がレイ・ブラッドベリの「火星年代記」の短編がつらなって長編になっているやり方とよくにている。 星新一が外国作品に強い影響(えいきょう)をうけていることがわかる長編。
小金井喜美子(こがねいきみこ)
明治期に活躍した歌人(短歌をよむ人)・翻訳家で、星新一の母方の祖母。 また、夫が小金井良精で、一番上の兄が森鴎外。 明治44年(1911年)平塚らいてうが創刊した日本初の女性誌「青鞜(せいとう)」に参画した。 星新一の愛読書だった中国の怪奇小説集、蒲松齢(ほしょうれい)著「聊齋志異(りょうさいしい)」のなかの一篇を喜美子は翻訳している。
小金井良精(こがねいよしきよ)
星新一のお母さんのお父さん、つまり母方のおじいさんにあたる人で、東京大学に銅像もある有名な解剖学・人類学者。 小金井良精の妻は明治時代の有名な小説家・森鴎外の妹にあたる人。 星新一は本郷駒込でいっしょにくらしていてたいへんかわいがられ、のちに評伝「祖父・小金井良精の記」を書いた。
国際エミー賞(こくさいえみーしょう)
第37回国際エミー賞(2009年)のコメディー部門でNHK総合で放送された番組「星新一ショートショート」がグランプリにえらばれた。 エミー賞とは世界のすぐれたテレビ番組におくられるもので、歴史も長く世界でもっとも知れわたっている有名な賞。
後藤新平(ごとうしんぺい)
安政4年(1857年)生まれ。 明治・大正から昭和のはじめにかけて、関東大地震がおこったあとの東京をもう一度りっぱなまちにするための計画をつくったり、公園や道路をととのえたり、今になっても語られる多くのことをなしとげた政治家。 父・星一としたしく、後藤のおうえんにより星製薬の仕事がうまくいくようになった。 父・星一はそのころ研究するためのお金がなくてこまっていたドイツ医学界に寄付をし、それがきっかけで日独文化協会ができた。 後藤はその初代会長になった。 星新一は「人民は弱し 官吏は強し」「明治の人物誌」の中で後藤のことを書いている。
小松左京(こまつさきょう)
日本のSFを星新一とともにおおいにもりあげた小説家で、とても気のあう一番の友だち。 大阪にすんでいたので、たびたび東京に出てきては星新一をよびだしてたのしく語りあった。 「日本沈没」「復活の日」「果てしなき流れの果に」などの作品がある。
【さ行】
三十年後(さんじゅうねんご)
大正7年(1918年)父・星一が書いて本にした未来小説。 薬の進歩によって社会がよくなるといったお話で、星製薬の宣伝にもなっている。 東京がかわっていく姿は、後藤新平の東京の都市計画のアイデアがかなり入っている。
渋江抽斎(しぶえちゅうさい)
星新一が、第二次世界大戦の最中に読んだ森鴎外が書いた本。 江戸時代の医者であり、本をたくさん読み、学ぶべきよい考えをたくさんもっていた渋江抽斎のことをしらべ、そのあつい思いを書いた小説。 このようなすぐれた作品との出会いがあって、星新一は小説家への道をあゆむことになる。 星新一もSFではなく、ほんとうに存在していた人間を主人公にして書いた作品(「人民は弱し 官吏は強し」「祖父・小金井良精の記」「明治の人物誌」)がある。
ショートショート
原稿用紙20枚より少なめで、短編小説よりもみじかい小説のこと。 思いつきのおもしろさをいかした作品で、読みはじめたときとは想像もつかないおわり方をするものが多く書かれている。 アメリカではフレドリック・ブラウン、日本では星新一がその代表的な作家。
城昌幸(じょうまさゆき)
探偵小説専門誌「宝石」を創刊した出版人、作家。 はじめて売られている雑誌に載った星新一の作品は「セキストラ」で、その掲載誌は「宝石」だった。 江戸川乱歩は星新一を城昌幸の後継者と考え、城は「宝石」を出している会社の社長でもあった。 城昌幸の作品集「怪奇の創造」は星新一が選者となって編集した。 作品に「怪奇製造人」「みすてりい」「のすたるじあ」がある。
新潮社(しんちょうしゃ)
昭和34年(1959年)、星新一のはじめて本になった「生命のふしぎ」を出版した。 「ボッコちゃん」「ようこそ地球さん」をはじめ41点の新潮文庫が出ている。 星新一が大きなたよりとしていた加藤和代は、新潮社に入社したときから定年退職するまでの37年間ずっと担当の編集者だった。
人造美人(じんぞうびじん)
昭和36年(1961年)に出版された星新一のはじめてのショートショート集の書名。 当初、「ボッコちゃん」を書名にする予定だったが、出版の前の年に「ダッコちゃん」というビニール製の人形が売りだされ、大人気になっていた。 しかし「ボッコちゃん」が雑誌に掲載され評判になったのは、「ダッコちゃん」発売の2年前のことで、「ダッコちゃん」人気に便乗した本と思われたくもない。 それで書名は「人造美人」に変更し、新潮文庫にするときには、ダッコちゃんブームも終わっていたので、書名を「ボッコちゃん」とした。
生命のふしぎ(せいめいのふしぎ)
昭和34年(1959年)に新潮社から出版された星新一はじめての本。 人類の誕生や人体のなぞといったことを、少年少女むけにやさしくときあかし、「自分の一日を、そして一生を、人間というりっぱなおごそかな生命現象にふさわしい生き方で、足どりたしかに、かがやかしく、生きなければならない」と少年少女たちにあついメッセージも送っている。 本が出たころ、まだあまり知られていなかった海外SF小説のあらすじもさしはさんで、どんどん読みすすめられるようになっている。
1001編(せんいっぺん)
昭和58年(1983年)にショートショート1001編を書きあげた。 その5年ほど前からエヌ氏の会とのやりとりから作品数が1000編に近づいていることがわかり、では「千夜一夜物語」を思わせる1001編をひとつのくぎりにしようと1001編目の作品を、出版社9社の雑誌9誌に9作品、ほぼ同じ時期に発表した。 ほんとうはあと100編くらい、数の中にいれられていないものがある。
楚人冠(そじんかん)
中学生のときに夢中で読んだのが「楚人冠全集」。 楚人冠とは朝日新聞社の日本人記者のペンネーム。 上品なおもしろさがあり日常で気づいたことや旅行で見知ったことをわかりやすく書き、星新一がお気に入りだった。
【た行】
太宰治(だざいおさむ)
星新一が若いころに夢中になって読んでいたのが太宰治作品。 とくに「ダス・ゲマイネ」をくりかえし読んでいた。 太宰を「100年にひとりの才能」とたいへんほめた。 星新一は太宰の文章をおおいに気にいったが、太宰とは逆をめざし、自分の文章をかわいた空気のように、すきとおるようにつとめ、物語のくみたてにもっぱら力をそそいだ。 「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などの作品がある。
筒井康隆(つついやすたか)
日本のSF小説がとりあつかう幅を大きくひろげて活躍している小説家。 SF御三家(ごさんけ)とよばれ、小松左京、星新一とSFファンを三分する人気は今もつづいている。 CMやドラマ、映画にも出演し、クラリネットも吹く。 いろんなところですぐれた才能をみせている。 「虚航船団」「時をかける少女」「七瀬ふたたび」などの作品がある。
手塚治虫(てづかおさむ)
漫画とアニメの第一人者。 多くの作品をのこし、つねにナンバーワンでありつづけ、多くのファンをつくった。 それは星新一とよくにている。 日本SF作家クラブのはじまりのころからふたりは気があい、手塚がなくなるまでずっと仲がよかった。 「三つ目がとおる」や「陽だまりの樹」にはホシヅルが出てくる。 「鉄腕アトム」「ブラック・ジャック」「火の鳥」などの作品がある。
テディベア
セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)がハンティング(狩り)に出てクマを見つけたが、かわいいクマの子だったので銃をむけなかった。 その話を知ったオモチャ製造業者が、ビロードでぬいぐるみをつくり、セオドアの愛称のテディ、そのベア(クマ)と名づけて売りだしたところ、たいへんよく売れ有名になった。 星新一は子供のころ、これでよく遊び、大人になってからもテディ・ベアへの思いを持ちつづけていた。
東京大学(とうきょうだいがく)
星新一は昭和20年(1945年)に東京帝国大学農学部に入学した。 東京帝国大学は戦争がおわると、東京大学に名前がかわる。 昭和25年(1950年)に大学院の前期課程の勉強をおさめおえたが、後期課程にはすすまなかった。 大学の医学部には、祖父・小金井良精の胸像(人体の胸から上の彫刻)がある。
戸越銀座(とごしぎんざ)
子どもが生まれて広い家が必要となったので、麻布十番から昭和38年(1963年)に母・精(せい)の住む品川区・戸越の家を建て増しし、引っ越した。 星新一の家族は「散歩に行ってくる」「お使いに行ってくる」「買い物に行ってくる」などと言って1,600メートルもあるといわれる商店街によくでかけた。 文房具屋でも本屋でもなんでもあるが、娘たち(長女・ユリカ、次女・マリナ)と一緒によく行ったのがオモチャ屋。 毎月1日になると、ひとり千円でひとつ買ってもらえることになっていた。
【な行】
新渡戸稲造(にとべいなぞう)
明治33年(1900年)、セオドア・ルーズベルトやエジソンも読んで感激したという世界中で売れた「武士道」という本を出版した。 明治時代からアメリカ、ドイツと海外で活躍し有名になった。 国際連盟事務次長のときに世界ではじめて人種による差別をなくそうという案を国際連盟にだした。 アメリカ留学時代に、父・星一はボストンで新渡戸と会い、それからずっと先生として心から尊敬するようになった。
日本SF作家クラブ(にほんえすえふさっかくらぶ)
昭和38年(1963年)3月5日、小松左京、福島正実(「SFマガジン」編集長)、星新一など11人で結成され、現在もつづいている。 星新一は初代会長をつとめた。 その年に発表されたすぐれたSF作品に日本SF大賞をだしている。
日本SF大会(にほんえすえふたいかい)
第1回大会は昭和37年(1962年)5月27日に目黒区公会堂でひらかれ、約200人のファンがあつまった。 星新一はみんなの前で新作を声にだして読んだ。 それから毎年、東京ではない地方での大会開催もあり、たくさんのSFファンがあつまるお祭りとしてつづいている。
日本推理作家協会賞(にほんすいりさっかきょうかいしょう)
星新一は昭和42年(1967年)6月出版の「妄想銀行」および過去の業績(ぎょうせき)で、第21回日本推理作家協会賞(昭和43年(1968年)3月)をもらった。 授賞式では、作品の発表などでおせわになった江戸川乱歩や大下宇陀児(おおしたうだる)にむけた感謝の言葉があった。
日本空飛ぶ円盤研究会(にほんそらとぶえんばんけんきゅうかい)
昭和30年(1955年)、日本ではじめて全国的に会員をあつめたUFOを研究する団体。星新一はその会員で、三島由紀夫、石原慎太郎も入会していた。 例会で提案されたSFの同人誌づくり(つまり本を売ってもうけようというのではなくて少ない部数でも同じしゅみや考え方なども持った人があつまって作品集をだそうという意見)に星新一は参加したいと手をあげた。 その同人誌が「宇宙塵」である。
野口英世(のぐちひでよ)
今の千円札に描かれている、細菌(バクテリア)を研究した有名な医学者(ドクター)。 明治9年(1876年)に福島県の小さな村に生まれ、おさないときに、左手に大きなやけどをしたが、勉強や研究など努力をして世界的に有名な人になった。 祖父・小金井良精は明治34年(1901年)アメリカで野口と会っている。 また父・星一は明治24年(1891年)アメリカ留学時代に知りあい仲よくなった野口のおかげで、大正11年(1922年)エジソンに会いにいっている。
【は行】
箱根・強羅(はこね・ごうら)
星新一が、少年から青年の時代にかけて夏休みや冬休みをすごした場所。 大事な宝物のようななつかしい思い出がいっぱいつまった別荘(星山荘と名づけられていた)がそこにあった。
花とひみつ(はなとひむつ)
星新一のイラストでも有名な和田誠(わだまこと)が絵本のためのショートショートを書いてほしいとたのみ、それをうけて星新一が書いたのがこの作品。 限定400部の小型絵本として1964年に出版された。 のちに岡本忠成監督・脚本で「花ともぐら」と作品名をかえアニメーション化された。 そのアニメーションは昭和45年(1970年)にイタリアのベネチア国際児童映画祭で銀賞をもらった。
ヒトコマ漫画(ひとこままんが)
1枚の絵の中にものがたりとオチがある漫画。 星新一はアメリカのヒトコマ漫画をあつめていた。 孤島に流れついた漂流者(ひょうりゅうしゃ)ものとか、マリッジ・カウンセラー(結婚の相談にのってあげる人)ものとか、あやしげな預言者(よげんしゃ)ものとか、日本にはないテーマが目についたので、それらを整理しユーモアたっぷりの紹介文を書きくわえ「進化した猿たち」という本にまとめた。
ブランコのむこうで
少年が、いろんな人が見ている夢の世界を冒険するお話。 すてきな物語とそのなかで登場人物とかわされる言葉をおいかけていくと、少年と同じように自分も成長していくように感じられるファンタジー。 大人になって読みかえしても新しい発見がある。
フレドリック・ブラウン
1906年アメリカのオハイオ州シンシナティ生まれのSF作家。 ユーモアあふれるショートショート作品で知られている。 代表作は「火星人ゴー・ホーム」で星新一は近代SFの傑作とほめている。 ブラウンに「ノック」という作品があり、それが「ノックの音がした」ではじまるショートショート集「ノックの音が」を書くヒントにもなった。 アメリカも日本も、SFが生まれて人気がのぼっていくころ、ショートショート人気は一番高かった。
ベートーベン
第二次世界大戦がおわりかけていたころ、爆弾が東京におちてくる、そんなときに星新一はベートーベンのレコードをかけてきいていた。 クラシックの名作中の名作としてピアノ三重奏曲第7番「大公」をあげているが、星新一はそれをきくたびにこれをきくのも最後かとため息がでた。
ペニシリン
イギリスのフレミング博士が青かびのまわりでは、ほかの細菌がそだたないことを発見しノーベル賞をもらった。 青かびが作りだしたものをペニシリンと名づけた。 星新一の東京大学での卒業研究は、そのペニシリンのつくり方。 日本に昔からつたわるコウジ(おみそやおしょうゆをつくるときにつかうカビをふやしたもの)のつくり方にならってやったが、半年かけた実験は失敗している。 しかし、卒業はできた。
星親一(ほししんいち)
星新一の本名。 父・星一は若いころ、アメリカに留学し、たくさんの工場に「安全第一」と書かれてあるのに気がついた。 それをもとにして「親切第一」という言葉を考えつき、帰国してから、仕事にもつかい、息子の名前にもした。 なお、弟・協一は「協力一致」からとったもの。
星真一(ほししんいち)
手塚治虫作品「ワンダー・スリー」の主人公の少年の名前。 星新一はずっと前に手塚から名前をつかわせてもらうときかされていた。 けれど、一字違いになっていて、これは手塚治虫の長男、眞から取ったのかもしれないと考えていた。 この作品はテレビアニメとなって、星真一が話題になり、そのとき小説家の星新一をはじめて知り、ファンになった人もいる。
星新一ショートショートコンテスト(ほししんいちしょーとしょーとこんてすと)
昭和53年(1978年)より講談社が主催し、星新一がえらんだショートショート作品のコンテスト。 毎年えらびぬかれた作品をあつめ本として出版され、受賞者から江坂遊、太田忠司、井上雅彦など、多くの作家がそだった。 これをきっかけにして作家になった多くがこのコンテストでみとめられたことをほこりにしている。 星新一がなくなったので平成10年(1998年)の講談社文庫「ショートショートの広場9」の出版で終了し、講談社のショートショートコンテストとしては、阿刀田高がかわって作品をえらび今もつづいている。
星新一 一◯◯一話をつくった人(ほししんいち せんいちわをつくったひと)
平成19年(2007年)に出版された星新一の初の評伝。 ノンフィクションライターの最相葉月(さいしょうはづき)が5年以上の年月をかけ、星新一の構想メモや下書きなど1万点以上の遺品を調べ、130人以上の関係者に話を聞いて、まとめあげた。 星新一が作家をこころざした経緯や考えていたこと、また日本文学史の中で見落とされがちなSFの流れをほりおこしたことでも重要な本となった。 大佛次郎賞、講談社ノンフィクション賞、日本SF大賞、日本推理作家協会賞、星雲賞の5つの賞を受賞した。 最相は星新一作品を読み解いたエッセイ集「あのころの未来 星新一の預言」も書いている。
星製薬(ほしせいやく)
明治43年(1910年)父・星一がつくった会社。 しっぷ薬、胃腸薬、鎮痛剤(いたみをとめる薬)などをつくって大きくなり、全国にチェーン店があった。 昭和26年(1951年)に社長の星一がなくなり、長男の星新一が会社をひきつぐことになった。 その前からおこっていたさまざまな問題もあり、会社はじょじょにうまくいかなくなった。 たいへんな苦労をしたが星製薬はほかの人にまかせることになった。
ホシヅル
星新一のシンボルマーク。 未来における進化したツルの姿。 色紙を書いてほしいとたのまれたときに、星新一は文字を書くのがにがてだったので、この絵が生まれた。 おいしいものを食べたがるので口が大きくなり、歩かなくなったので足がみじかくなり、そのおかげで太ってしまった。 テレビの見すぎで目が大きくなり、いろんな情報が入ってくるので頭が大きくなった。 ツルは千年も長生きするので、あっさりとは死なない。 からだには害のあるものをいっぱい食べてためこんでいるので人は食べることもできない。 などと、あとから星新一はこの絵を、今の人間をするどく観察しながらおもしろおかしく説明している。
ホシヅルの日(ほしづるのひ)
星新一は1997年12月30日になくなった。 その後、小松左京の提案によって、星新一の誕生日である9月6日が「ホシヅルの日」とよばれるようになった。 ホシヅルの日を記念して、1999年9月11日に、友人のSF作家、SF関係者たちがあつまり、科学技術館サイエンスホールにて「星新一をしのぶ会」がひらかれた。
星一(ほしはじめ)
星新一のお父さん。 明治6年(1873年)に福島県いわき市に生まれる。 若くしてアメリカに留学。 明治41年(1908年)衆議院議員にえらばれた。 明治44年(1911年)に後藤新平におうえんされて星製薬をはじめる。 官僚(国を動かしている役人)におさえつけられ、たいへんな苦労をした。 星親一(星新一の本名)は星一が53歳のときの子供で長男だった。 父・星一は会社の仕事におわれ、子供と話す時間もすくなかったので、星新一は「明治・父・アメリカ」や「人民は弱し 官吏(かんり)は強し」を書くことにより、あらためて長く父とむきあったことになる。
星薬科大学(ほしやっかだいがく)
東京都品川区にある父・星一が昭和25年(1950年)につくった私立大学。 星製薬の会社の中につくった教育部が星薬業講習会、星製薬商業学校、さらに星薬学専門学校へと大きくなりついに大学になった。 「世界に奉仕する人材の育成」「親切第一」を教育方針にかかげている。
ボッコちゃん
星新一が作品の中でとくに気にいっていたもので、「その後のショートショートの原型(もとのかたち)」「すべての出発点(はじまり)」と話し、昭和38年(1963年)6月、日本人作家の小説としてはじめてアメリカのSF雑誌に翻訳された。 ボッコちゃんはバー(お酒を飲むところ)ではたらく、かけられた言葉をうまくかえすロボット。 「おーい でてこーい」とともに星新一の代表作。
本郷駒込(ほんごうこまごめ)
星新一がおさないころ、すごしたのが本郷駒込。 おちついた住宅地で、明治時代のものがまだたくさんのこっている場所だった。 父・星一、母・精の長男として生まれたが、本郷駒込は母がそだった家だった。 東京大学名誉教授の医学者(ドクター)である祖父・小金井良精、そして森鴎外の妹だった祖母・喜美子と両親、後に生まれる弟・協一、妹・鳩子(やすこ)といっしょに、昭和20年(1945年)までここでくらした。
【ま行】
モーツァルト
電気蓄音機(今なら音楽プレーヤー)で星新一はクラシック音楽にききほれ、好んで聴いていた作曲家のひとりがモーツアルトだった。 中学生のころに友だちから教えられモーツアルトの弦楽四重奏(部屋の中でヴァイオリンやビオラ、チェロなどの楽器で演奏される曲)をよくきいていた。
森鴎外(もりおうがい)
明治・大正時代の小説家。 夏目漱石とならぶ文豪。 祖父・小金井良精と森鴎外のふたりはともにドイツに留学。 親戚関係(しんせきかんけい)になる前もあともかわらず、したしくつきあいつづけた。 「舞姫」「高瀬舟」「渋江抽齋」などの作品がある。
【や行】
邪馬台国ハワイ説(やまたいこくはわいせつ)
邪馬台国という国がどこにあったのか、近畿なのか九州なのか、いまだわかっていない。 そもそも中国で書かれた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にのっている文章がみじかく、あてにならない。 その通りにたどると邪馬台国は日本の陸地からはなれて海に出てしまうからだ。 それで星新一は、邪馬台国の女王の卑弥呼(ひみこ)が、うすい着物でおどるさまがフラダンスのようでもあるので、邪馬台国はハワイにあったというおもしろい新説を考えついた。
(ゆめ)
星新一は「小説のアイデアは夢からとってこられるのですか」とよくきかれた。 その質問に対して、いつも「夢そのものを見ない」と答えていた。 夢を見ていないから、夢のようなふしぎな話を自分は書けるのかもしれないと、星新一は考えていた。
【ら行】
落語(らくご)
着物姿の人がひとりで語る、江戸の長屋などを舞台にしたおもしろい噺(はなし)。 星新一は学生のころ、三笑亭可楽(さんしょうてい・からく)、桂文楽(かつら・ぶんらく)、古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)などの噺を寄席(よせ)と呼ばれる専門のホールに聴きに行っていた。 さくらんぼの種を食べたら、桜の木が頭に生えて、町内のものが花見をたのしむといった「頭山(あたまやま)」や、誤解や取り違えからドラマは生まれる、ということの見本のような「こんにゃく問答(もんどう)」、言葉あそびの「錦明竹(きんめいちく)」などを名作としてあげている。 星新一は「戸棚の男」「ネチラタ事件」「四で割って」など落語用のショートショートもいくつか書いている。
旅行(りょこう)
星新一のはじめての海外旅行は東京オリンピックの開催された昭和39年(1964年)、東まわりの世界一周だった。 ハワイ、ロサンゼルスを経て、ニューヨークでは世界博覧会を見物し、ヨーロッパへわたり、パリ、ローマなどをまわっている。 その後オーストラリアに家族で行き、ソ連旅行では作家の北杜夫や大庭みな子と3人で汽車の旅をたのしみ、小松左京とはアテネ・マドリッドなど二十日ほどヨーロッパをまわっている。 また東南アジアにはSF作家の豊田有恒、田中光二と3人で行っている。 講談社の第1回ショートショートコンテストの入選者とはカイロからはじまるヨーロッパ旅行をたのしんだ。 ほかに中国東北部や台湾、ブラジル、南米パラグアイ、ペルーにも足をのばしている。
ロボット
人間とはなにかを考えるのに、ロボットは役に立つと星新一は考えていた。 ユーモアやペーソス(ものがなしさ)、風刺(人間と社会のおろかさや間違いなどを、皮肉をこめていうこと)や恐怖を味わわせてくれるものというわけである。 未来の世界ではいろんなロボットがつくられ、人間の生活を楽にし、たのしませてくれると期待していた。 「きまぐれロボット」をはじめとして、作品の中にさまざまなロボットを登場させているので、ひろいだしてくらべてみると星新一の考え方が見えてくる。
【わ行】
和暦と西暦(われきとせいれき)
日本では、「平成24年」などの和暦と「2012年」などの西暦の両方を使っている。 それがわずらわしいと考えた星新一は、二つの暦(こよみ)をひとつにする方法を考えついた。 西暦2001年になったとき、和暦の方を「日扇」「弐泉」など、「にせん」の発音の年号にあらためれば、あとはシンプルにうまくいくというものだ。 残念なことに、実行されないまま西暦は2001年をすぎたので、つぎは3001年を待ちたい。 (くわしくは、エッセイ集「きまぐれ暦」で読もう)

 
 
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