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 寄せ書き 
鵜川龍史「子どもたちを導く存在としての星新一」

小説家・脚本家・教員
 私は、第七回と第八回の日経「星新一賞」で優秀賞をいただいた、鵜川龍史といいます。 普段はSF寄りの小説を書きながら、東京都内の中高一貫校で国語の教員をしています。 「星新一賞」とは何かと縁が深く、私だけでなく、教え子も何人か受賞させていただいています。

 「星新一賞」の受賞者の方も多く言葉を寄せられているこの「寄せ書き」ですが、せっかくなので、教員の立場から、星新一先生への思いをつづらせていただきたいと思います。 しばらく、お付き合いください。

*  *  *

 思春期の若者を相手にしているということもあり、自己表現ということについて、よく考える。

 小説や詩を朗読するのは、一つの表現だ。 自分の意見を小論文の形にするのも表現だし、近頃ではスライドを用いたグループ発表なども行うが、これも表現である。 ただ、自己表現といった場合には別のニュアンスが加わる。 その人なりの個性やアイディア、端的に言って創造性をどう発揮するかが問題になる。

 小学校でも中学校でも、誰もが絵を描く機会を与えられる。 モノや風景、クラスメイトや、時には頭の中の空想を絵にすることを求められたりする。

 ところが、音楽となるとそうはいかない。 楽譜の通りに演奏することはあっても、作曲を課されることはまれだ。 国語の授業では、短歌・俳句を作ることはあっても、小説の執筆を課されることは多くない。 短歌・俳句を表現として低く見る意図は全くないが、生徒が授業で作る短歌・俳句を音数合わせ以上の「作品」へと導くには、それなり以上の工夫が必要になる。


 教師になって二十年以上が経つが、キャリアの早いうちから、小説を書く活動を授業の中に組み込んできた。 執筆を通じて構造や表現の仕組みを知ると、読解の深さにも変化が起きる。 結果として、共感的な読みにも、批評的な読みにも、一定の効果があった。

 一方で、生徒の書くものに対しては不満が募った。 普段の彼らは、漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームを通じて、SFやファンタジー、ミステリといった、ジャンル表現に接しているはずなのに、アウトプットされるものは、ほとんど全て私小説。 それも、自分の後悔をそのままトレースしたようなものが大半だった。 反省文のような小説を何百本も読みながら、まれに現れる傑作に、自己表現は選ばれた人間だけのものなのだろうか、と悩む日々が続いた。

 やがて、原因は彼らではないのではないか、と思うようになった。 学校という構造や、授業や課題という文脈が問題なのではないか、と。 現に、教科書にはSFもファンタジーもミステリも載っていない。 彼らは、正しく「学校の課題」に取り組んでいただけなのではないだろうか。

 それなら、どうやってその頸木から彼らを解き放てばよいのだろう。

 ちょうどそんな折だった。星新一賞が始まったのは。

 第一回の2013年は、私自身SFを書き始めたばかりで、手探りで作品を完成させて応募するので精一杯。 課題に使えると気付いたのは、その後だ。 それには、ジュニア部門の存在が大きかった。

 2014年、私は中学二年生を担当することになった。 その学年では中一の時から、短歌・俳句を下敷きにした小説の執筆や、コント(対話劇)の創作・実演など、様々な形での表現活動を実践していた。 だから、その延長線上に星新一賞への応募が浮上してきたのは、ある意味必然だった。

 結果的に、一人の生徒が優秀賞を受賞したのだが、この活動にはそれ以上の収穫があった。 彼らの書いた作品の中に、一つとして自己反省的なものがなかったのだ。 内省的な内容だったとしても、そこには未来へのアイディアがあり、多くの作品には工夫を凝らした結末が用意されていた。 受賞した作品の他にも素晴らしい作品がいくつもあり、そのうちの何人かは、私が顧問を務める文芸部に勧誘したりもした。

 当初は、「100年後の未来」というテーマが影響しているのだろうと考えていたが、生徒からフィードバックをもらう内に、そうではないということが分かった。

 生徒を導いていたのは、「星新一」の名前だった。

 多くの生徒が、星新一的な作品を書こうとしたことが、たくさんの傑作を生むことに繋がったのだ。


 優れた作品の中には、表現意欲を掻き立てるタイプのものがある。

 例えば、鳥山明の『ドラゴンボール』。 デフォルメによるポップさとマンガ表現的なカッコよさが同居する独特の絵柄は、自分の手で描いてみたいと思わせる魅力を持っている。 その点、車田正美や原哲夫の絵とは方向性が全く違う。 星矢やケンシロウを模写した経験のある人より、悟空を模写したことのある人の方が遥かに多いだろう。

 星新一には、同じ匂いがある。 似たものを書いてみたいと思わせてくれるのだ。 技術的に高度なことをしているにもかかわらず、そうは見えないから、同じことをしてみたくなる。

 その事実は、表現者としての価値を貶めたりはしない。 鳥山明が様々な側面から神格化して語られるように、星新一が作家として別格であることは、また別の事実が示している。

 私の勤務先は男子校だが、小学生時代から本が苦手だった、という生徒が多い。 ところが、そんな生徒のほとんどが、星新一は別だ、星新一は面白かった、と言うのだ。

 もちろん、だからといって、彼らが星新一の作品を片っ端から読みあさってくれるわけではない。 それでも、「星新一賞に応募しよう」となった時には、彼らの中にある小説、創作のイメージは、一気に塗り替えられる。 授業や課題、学校という文脈は一瞬で流れ去り、星新一的な発想と工夫へと目が向けられる。


 2015年以降は、授業ではなく、放課後の特別講習という形で、創作のためのワークショップの工夫を続けていったが、2018年、星新一賞への応募を、中学一年のカリキュラムに組み込んだ。

 その年は、ジュニア部門グランプリを受賞。 優秀賞にも一名が入るなど、素晴らしい結果となった。 加えて、同級生たちが創作全般への意欲を高めることにも繋がった。 それは後輩たちにも引き継がれ、2021年には、久しぶりに準グランプリと優秀賞に名を連ねることとなった(ちなみに私は、そのはざまにあたる2019年と2020年に、優秀賞をいただいた)。

 重要なのは、自分の表現が誰かに届くかもしれないと思えることなのだ、と強く感じる。 それは、世界への信頼と言い換えてもいい。 自分の声に気づいてくれる人が、この世界のどこかにいる、という信頼  。 暗闇で叫ぶのは、誰かがそこにいるかもしれないという希望に縋ろうとするからだ。 誰にも届かないという絶望の中にいれば、声を出そうとしても出ないだろう。

 教育現場は、この十年で大きく変わった。

 パッケージされた知識をインプットして、そのままアウトプットする形は壊れつつある。 自ら問い、自ら学び、それらを共有し、発展させる。 探究学習などと呼ばれているが、このような形態の学びを実践する上で最も重要なのは、自分たちの学びが、よりよい世界の創造に繋がるかもしれないと信じられることだ。

 中高での探求学習の実践が、地域社会の変革に結びついたという事例は、いくつも存在する。 しかし、中高生の行う全ての活動実践が実効的価値を持つのは、物理的に不可能だ。 その事実に目をつぶり、全ての生徒に同じような学びを体験させようとすれば、探求学習風の実践で、問題解決風の結末に至ることができる授業実践をコピペするしかないだろう。 結果、活動は茶番化する。

 であれば、どうすればいいのか。

 今の自分たちの取り組みは、そのままの形では社会に繋がらないかもしれない。 それでも、先輩の活動は次の代の原動力になった。 同級生の活動は外部から評価されている。 そういう風景を見ていれば、自分の取り組みも決して無駄になることなく、いつか誰かに届くかもしれないと思えるようになる。

 同級生と共に星新一賞に挑戦するという活動は、彼らがそういう世界観を実感する第一歩になっている。 この活動は、彼らを自己表現へと啓いてくれるだけでなく、自己表現が自己完結しないというヴィジョンへと導いてくれている。


 一方で、そういった繋がりを感じ取ることが困難な生徒もいる。 私自身がそうだった。 クラスメイトや先輩後輩との紐帯を感じられない。 自分がいる場所に対する所属感が得られない。 孤独を感じているわけでも孤立しているわけでもない。 ただ、周囲とのつながりの実感がないのだ。

 だから、かつての自分に示すつもりで、私は自分の挑戦を語り続ける。

 生徒と一緒に星新一賞に挑戦する。 そのうち二度は、優秀賞をもらうことができたが、それ以外は全て落選。 最終選考にも残らなかった。

 かつて、教育は失敗を許容しなかった。 失敗しないように注意を促され、それでも失敗した場合には、努力が足りない、指示を聞いていない、と責め立てられた。 それが、二十一世紀に入ってからは風向きが変わった。 失敗をポジティブな経験と位置づけ、挑戦を奨励するようになった。

 というのは表向きの話。 そもそも、多くの生徒は失敗を嫌がる。 挑戦には失敗がつきものだが、どれほど教員が生徒のチャレンジを称賛し、失敗にポジティブなフィードバックを返したとしても、彼らの中にある失敗への忌避感は消えない。

 だから、私は、自分が失敗する姿を見せる。 失敗しても失敗しても、挑戦し続ける姿を見せる。 決してかっこいいものではない。 みっともなくて苦しくて、時に逃げたくなって、本当に逃げてしまうこともあるが、しばらくするとまた戻ってきて挑戦を再開する。そうしていると、時々、思ってもみないご褒美が待っている。 ここに書かせていただいているのも、そんなご褒美の一つだ。

 挑戦という行為の中には、繰り返される失敗が織り込まれている。 そして、失敗し続けた人間だけが、挑戦の先にある風景を見ることを許される。 教員=大人が、生徒=子供と同じ風景を見られるのが、今の時代だ。 それはそれで、なかなかいい世界であるように感じている。


2023年11月

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