僕が大人の文庫本を自分で買うようになったのは中学一年の夏休み明けで、星新一先生の『エヌ氏の遊園地』が最初。
今も本棚にあるそれを確認したところ、昭和49年に重版されたものだった。
僕のイニシャルがエヌなので何となく手に取り、読んでみたら、その軽妙さとしゃれた調子、何よりウイットが効いているのにたまらなく惹かれた。
一日で読んでしまったので、翌日続けて『ノックの音が』を読んだ。
冒頭が同じ一文ではじまって、さまざまに展開していくスタイリッシュさに驚いた。
日本人にこんなしゃれた作家がいるのか、と思った。
小学生時代に読んでいたのはもっぱら歴史の本で、物語は児童版の『平家物語』や『南総里見八犬伝』から『路傍の石』や『吾輩は猫である』に行っていたので、当時の吾輩はすこぶる古風だったのである。
と少年時代から雑読派で、あちこちに関心は飛んだけれども、星先生は常に読み続けた。
星先生の作品は、いつ読んでも面白いが、気持ちの中に暗いものや濁ったものが沈殿したとき読むと、それを浄化してくれるようなところがある。
人間性が回復され、心が救われる気がした。
だから『人民は弱し 官僚は強し』を読んだときは、星先生の背景にそんな重苦しいものがあったのかと驚いた。
それでいて、この軽やかさは何だろう、と。
そういうわけで、田舎町の本屋で手に入る文庫はすぐにみんな読んでしまい、ないものはカバー袖のリストを見てお小遣いと相談で注文し、昭和51年以降の文庫は初版しかない。
あっ、星先生が折々に自作をリノベーションされていたことを、迂闊にも最相葉月さんの『星新一 一〇〇一話をつくった人』で知り、読み比べてみようかと買い直した本が数冊あった。
でも単に読み直しただけで、読み比べをしていなかった。
お話が面白すぎて、野暮なことしたくなくなるんですよね。
そもそも星先生の作品には、人間性に関する普遍的で鋭いまなざしがあるので、時代の表層がどう変わっても、変わらずに新しい。
お気にしすぎ。
でも、星先生らしい律儀さではあるなあ。
僕が星先生にお目にかかった……というかお見かけしたのは数えるほどしかない。
それもたいていパーティの席なので、たぶん星先生は私のことを個別認識されていなかったと思う。
それでも古典SF研究の師である横田順彌先生が、「彼は若いけどSFの歴史を調べているんですよ」と紹介してくださった。
その時、星先生は僕に視線を向け「変わり者仲間か」と真顔でおっしゃり、そのあとニコリと微笑まれた。
真顔の時の怜悧さと、笑顔の無邪気さが共に印象深かった。
それ以降、何度かお見かけする機会はあったものの、気後れして近づけないまますごしてしまった。
ただチラチラと遠望するのみだった。
惜しいことをした。
いろいろ伺っておけばよかった。
今ほど図々しくなかったのである。
そんな中で覚えているのは、今日泊亜蘭先生の出版記念会でのこと。
ご本人のあいさつがちょっと長くなり、会場のそこここで私語が交わされていた。
すると今日泊先生が一角に目を付け、「そこ、うるさいぞ星」と怒鳴ったのだった。
会場は一瞬にして凍りついた。
念のために言っておくと、別に星先生が大声で話していたとかではなく、背が高いから目に付いたのだと思う。
星先生は肩をすくめてぺこりと軽く頭を下げられた。
会場は再び(あの、星先生に「うるさいぞ」とは……)とざわついたのは言うまでもない。
しかし星先生は律儀な方なので、自分より年長の今日泊先生への礼儀の大切さは、当たり前のことだったのだろう。
ウイットとコモンセンス。
その両方を僕は星先生にお教え頂いた(どちらもちゃんと身に付いてはいないけれども)。
2021年6月
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