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 寄せ書き 
田中哲弥 『おかしな先祖』の心残り

小説家
 ぼくが生まれてはじめて自分の小遣いを使って買った本は星新一『おかしな先祖』のハードカバーだった。 小学校五年生、十歳のときだと思う。

 それまでは両親といっしょに本屋に行って買ってもらっていた。 両親ともに本好きだったおかげで本だけはこれが欲しいと言えばたいてい買ってくれたのだが、さすがに『エマニエル夫人』とか『O嬢の物語』などはどれほど気になっていてもこれが欲しいとは言えず、言ったところで買ってもらえるわけがないのは子供の頭でもわかるので買ってもらえそうな本を選んでいたわけである。

『おかしな先祖』の表紙は、きれいな裸の女性が妖艶に微笑んでいたりきれいな裸の女性が縛られて吊るされていたりするわけではなかったので欲しいと言えば買ってもらえたはずなのだが、親といっしょに本屋に行くという機会は月に一度あるかどうかというくらいで、それがどうしても待てなかったのだ。

 とにかく今すぐ星新一の本が読みたいという一心で、ひとり駅前の小さな本屋へ自転車を走らせ、探しに探して発見したのが『おかしな先祖』だった。 五百円もした。 田舎の子供の小遣いで買うにはかなり高価なものだったがそれしかないのならしかたがない。 こんな高い本ほんまに買うんかほんまにええんか家帰ったら怒られるんちゃうやろかという震えとともにレジへと持っていったのを今でも覚えている。 あれはこわかった。

 星新一とショートショートを知ったのは同じクラスの女子たちが話題にしていたからで「ホシシンイチオモロイナーホンマヤナー」という会話を耳にしたときはまたマンガの話だろうとしか思っていなかったところが見ればマンガを描くのが上手な中川さんや背筋力が八十キロある岸田さんが手にしているのは小説ではないか。

 当時ぼくは女の子たちの人気者だったのでそれ貸してと頼めばみんな頬を赤らめながら嬉しそうに貸してくれたというのは嘘だけど泣きついたり脅したりなんとかして数冊借りることに成功しその場ですぐさま読んだ。 授業中も読んだ。 あっというまに読み切ってしまい、あっというまに中毒となったあげく白目真っ赤に染めて本屋へ走ったのだった。

 そうして手に入れた『おかしな先祖』はショートショートではなく短編集だったがそんなことはどうでもよかった。 その日以来何度くりかえし読んだかわからない。 すべてはそこからはじまったのである。

 なにがはじまったのかしらないが、一九八四年三月、二十一歳となったぼくの目の前に星新一がいた。 もちろん本物で、あ、ちゃんと動いてるうごいてる、みたいな不思議な感動だった。 星新一ショートショートコンテストの授賞式でのことである。 とはいえ直接話しかけるなどという恐ろしいことは最初から頭になく、遠目に眺めては、あ、ちゃんと喋ってる、あ、なんか飲んだ、と感心するばかり。

 するとどういうタイミングだったか忘れたが、他の受賞者の方々が本を手に手に星さんお願いしますというようなことを始めた。 なるほどサインをお願いしているのかおおなるほどそうすれば少しくらい話せるし記念にもなるではないかめっちゃナイスアイデアやんかと気づいたときはすでに手遅れ。 本にサインしてもらうなんて考えもしなかったなあ。 今思えばなんで考えもしなかったのかさっぱりわからないが本なんか持ってなかった。 さらに今思えば別に本でなくても他のなにかにサインしてもらえばよかったのだが、ぼく本持ってない、サインしてもらえない、としか思わなかったのである。 そうそう、あなたが今うすうす感じているとおりたぶんぼくはものすごい馬鹿だったのだ。

 そんなこんなでパーティーも終わってしまい、おいしそうなフライがあると思って口に入れたら中身が甘いあんこでびっくりしたことしか思い出に残らなかったが、本にサインしてもらいたかったなあという後悔だけは強く残った。 今も後悔している。

 今もときどき『おかしな先祖』を本棚から取りだして読み返す。 そのたび、これに星さんのサインをもらっていれば、これ、ぼくが生まれてはじめて自分の小遣いで買った本なんですよと話せていればなあといつも思う。


2024年3月

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