初めて手に取った星新一さんの本は、『気まぐれロボット』(理論社1966年刊)だった。
和田誠さんのカラーの挿絵が素敵な函入りの本で、星さんが父宛に送ってくださったものだ。
幼い私を寝かしつけるのに、父はよくお話を読んでくれたが、いちばん多かったのが、小泉八雲と宮澤賢治と、それから星新一さんの、このご本だった。
私は中でも「薬のききめ」が、なぜかお気に入りだったようで、あんまり何度もせがまれた父は、あとは自分で読みなさいと、難しい漢字にルビをふってくれた。
星さん、と書くのをお許しいただきたい。
家で両親が「星さん」と(実際は「ほっさん」に近い読みで)お呼びしていたので、私も子供のくせに、それが普通になってしまったのだ。
小学生の頃には、星さんの新刊が送られてくる度、父より先に(もちろん許可を得てだが)一気に読むようになり、そのうち、家に前からあった本も読み始めた。
当時父が星さんに「うちの娘は星さんの本、ほとんど読んでますよ」と話すと、星さんはニヤッと笑って「でも、『人民』は、まだでしょう?」と仰ったそうである。
確かに『人民は弱し 官吏は強し』は、小学生には難しかった。
ちょっと悔しかったのを憶えている。
同じ時期だっただろうか、国語の教科書に、作者名はなかったが、これは絶対星さんの文章だとしか思えないお話が載っていて、父に見せると、「僕もそうやと思うけど、訊いてみよか」と、いきなり電話をかけ始めた。
しばらく話した後、受話器を置いた父は私に向かって「やっぱりそうやって。本人が言うてはんねんから間違いない」と言った。
教科書にいろいろ書き込む癖が私にはあったが、その『花とひみつ』のページだけは何も書き入れず、綺麗なまま学年を終えた。
『気まぐれロボット』のネコや発明家、宇宙人やロボットから馴染んできた星さんの世界は透明で、いわゆる「俗」とは真逆のように感じていたが、描写が簡明で清潔だからそう思うのであって、卑近なものも超越したものも、そこには在った。
社会の複雑さや歴史の皮肉、男女の機微、そういったことも、私は大人になる前に、いつのまにか星さんのショートショートから教わっていたようだ。
初めてお目にかかったのは大学生になってからで、確か1982年のTOKONの控え室だったと思う。
緊張して、殆ど言葉が出なかった。
その数年後、渋谷パンテオンだったかで、メル・ギブソンの新作の大試写会があり、SF作家にも広く招待状が送られたらしく、私は父の代理で観に行った。
終映後、斜め後ろに星さんご夫妻がいらっしゃったので、つい、眉村の娘です、と申し上げてご挨拶すると、「オーストラリアというのは、ああなんですかなあ」と、何の社交辞令もなく、いきなり映画の感想を口にされた。
ああ、星さんだ! と、何だかとても嬉しかった。
明るくなった大スクリーンを劇場の高みから見下ろしておられた佇まいがまた、地球か宇宙を見つめている造物主のように思えたのを、今でも忘れられないでいる。
2021年9月
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