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 寄せ書き 
砂原浩太朗「星新一のDNA」

作家
 ふだん時代小説や歴史小説を書いているためか、拙作に星新一の影響を指摘される機会はまずない。 むべなるかなというところで、畑違いと見えることは容易に想像がつく。 が、私自身は濃厚にそれを感じているし、けっして的外れでもないだろう。 自分なりに、そうしたことを検証してみたいと思う。

 じつは、人生ではじめて作家として意識した相手が、星新一だった。 小学校2、3年のころだが、泊りがけで親類の家へ遊びに行ったとき、退屈しのぎにと渡された本のなかに、その著作が入っていたのである。 具体的な書名でいうと、『ボッコちゃん』だった。 たちまちとりことなり、結果としてほぼすべての星作品を読んだ。 これは、ショートショートに留まらず、『きまぐれ星のメモ』といったエッセイ、『明治・父・アメリカ』のような伝記小説、一コマ漫画を取りあげた『進化した猿たち』(現行のセレクションではなく、完全版)なども含んだ、掛け値なしの全作という意味である。

 とはいえ、もっとも夢中になったのは、やはりショートショート。 明晰な文体と、予想もつかないどんでん返しに魅了された。 それまでも本を読まない少年というわけではなかったが、漫画やテレビとおなじ、いくつかある娯楽のひとつという位置づけだったと思う。 同じころ出会ったシャーロック・ホームズやアガサ・クリスティとともに、星作品が私という人間の舵を小説へと切ったのである。

 本好きな少年にありがちなことだろうが、私も4年生のころから、小説家となる将来を思い描くようになる。 が、ショートショートを書こうとはまったく考えず、当初はミステリー作家になるつもりだった。 ミステリーを軽んじる気は誓ってないが、ショートショートというジャンルは、星新一にしか書けないものだと信じていたのである。 それでも、あるいはだからこそ、この作家に対する敬愛は格別で、「未来の自分」というお題を出された小学校の卒業文集には、江戸川乱歩賞を受賞して、授賞式のゲストに星新一が来てくれる、という話を書いた。

 ところが、中学校へあがる前の春休みに、書店で横山光輝の漫画『三国志』を立ち読みしたことがきっかけで、一気に歴史や時代劇へと興味が移る。 愛読する作家も吉川英治や藤沢周平になった。 結局、乱歩賞への応募は一度もせず、星作品をひもとくことも少なくなる。 ショートショートやミステリーは、自分のなかから消えたと思っていた。

 それが間違いだったと分かったのは、40代も後半となり、歴史・時代作家としてスタートした後である。 前田利家とその家臣を描いたデビュー短篇「いのちがけ」からしてすでにそうなのだが、しばしば自分が、どんでん返しや叙述トリックといった手法を用いていることに気づいた。 できるとは思わず、しようという意識さえなかったにもかかわらずである。 これは『高瀬庄左衛門御留書』や『黛家の兄弟』のような時代小説でも同様で、「意外な展開」「思いも寄らぬどんでん返し」という声をいただくことが多い。

 以前、ある大家が「作家というものは、読んできた作品でできている」と語っておられるのを目にしたことがある。 そのときは、果たしてそうなのか、と疑問に思うところもあったが、まさに自分自身がその例だったというほかない。 いくぶん大げさ、ないし僭越な表現になるかもしれないが、私という作家のなかに星新一のDNAが息づいていたのだと感じている。

 さらにいえば、星作品の余波は、小説の命ともいうべき文章にまで及んでいる。 読者のレビューなどで、拙文に対して「読みやすい」という声を散見することがある。 そこに星新一の匂いを嗅いだ人はいないようだが、私自身は抜き差しならぬほどの関係を実感している。 これに思い至ったのはずいぶんと古く、中学生のころである。 先ほども述べたように、すでにそのころ関心はべつのジャンルへ移っていた。 が、自分の文章が読みやすいということは自覚しており、「これは星新一に由来するものだ」と痛感した記憶がある。

 考えてみれば、人格形成期にあの明晰な文章を浴びるほど読んできたのだ。 洗礼を受けないはずがない。 たしかに、いま私の文体に星新一の気配は薄いかもしれず、先人の作家としては、その後傾倒した藤沢周平との対比で語られることが多い。 だが、基本的に読みやすくあるべきという志向を抱いたのは、間違いなく星作品への耽溺あってこそである。 作家としての基礎についていうなら、むしろ星に負うところが大きい。

 ちなみに星新一本人は、自らの文体について杉村楚人冠(記者・随筆家。1872〜1945)の影響だと書いている。 これをもって楚人冠の孫弟子と称するほど厚かましくはないが、系譜的にはそうした位置づけにならぬこともないだろう。

 ここまで星新一の影響についてつらつらと語ってきたが、実はひとつおまけがある。 時おり新聞や雑誌から10枚程度の掌篇を依頼されると、やけに力が入ってしまうのだ。 結果、自分でも満足のいく作品が生まれてもいるのだが、たまにだからできることである。 1001篇はおろか、私などには101篇生み出すことも難しいだろう。

 が、作家生活のあいだに1冊くらいは掌篇小説集を出してみたいと、近ごろ思いはじめている。 これもまた、星新一のDNAが成せる業といってよいのではなかろうか。


2022年2月

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