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 寄せ書き 
かんべむさし「思い出す星さん・私的総集編」

作家
 星新一さんに御面識をいただいたのは1975年の夏、神戸で日本SF大会「シンコン」が開催されたときで、二日間のプログラムもすべて終了したあと、SF作家諸氏の控え室でだった。 そのときのぼくは20代後半で、筒井康隆さん主催の同人誌「ネオ・ヌル」に参加し、小説作法を一から勉強させてもらっていた時期。 SFマガジンのコンテストに応募した作品が、選外佳作としてすでに掲載されてはいたものの、独立の決心はまだつけられていない広告マンだった。 そんな中途半端な立場ではあったが、堀晃さんの案内で、その部屋に入れてもらったのだ。

 そして、星さん、小松左京さん、筒井さん以下の諸氏が楽しそうに雑談しておられるのを、遠慮、気後れ、おどおどといった気持ちで、壁を背にして立って聞いていた。 すると何のきっかけでだったか、星さんが突然、「神戸に来たけど、かんべむさしに会えなかったな」と言われた。 それに対して筒井さんが「いや。そこに立ってますよ」とこたえ、星さんは「あ」とか何とか声をもらす。 皆がこちらに顔を向けたので、ぼくは黙礼し、そのとき星さんと眼が合ったのだが、瞬間、何とも言えない照れくさそうな顔で、視線を泳がすような反応を示された。 途端に当方、「うわあ。この人、無茶苦茶ええ人や!」と思い、一遍に好きになっていたのだった。

 後日聞いた話では、星さんは人見知りするタイプだったのだそうだ。 ただし、社会人としての良識やエチケットに厳しい人でもあり、とっつきにくいとか、話しづらいとか感じる人もいるという。 しかしぼくは上記の経験があったためか、そんなことまったく感じたことはなかった。 パーティー会場でも銀座のクラブなどでも、もちろん言葉遣いやマナーに気を遣ってだが、楽しくお話をさせてもらったのだ。


 で、結局のところ、ぼくは1975年末で脱サラしたのであるが、ラッキーなことにその翌年早々、日本SF作家クラブに入れてもらえた。 当時のクラブでは年一回、鎌倉霊園へ大伴昌司氏のお墓参りに行き、そのあと熱海に移動して一泊するという、親睦行事が催されていた。 夕方、旅館でクラブの総会をし、夜は大広間での宴会のあと、麻雀大会、馬鹿話大会に移るのが毎年の恒例になっていた。

 星さん、小松さん、筒井さん、半村良さん、眉村卓さん。 これらの諸氏はSF第一世代と称されており、1970年代半ばには、もちろん全員お元気だったし、大活躍中でもあった。 しかも手塚治虫さんも会員で、そういった「神さま」と直接お話をさせてもらえるようになった当方、「おれは何という幸せな世界に入れたのか!」と、興奮歓喜にタマシイを震わせたものだった。

 実際、上記した宴会や麻雀の場における飲みながらの部外秘(?)大放談会、そこでの星さん小松さんの弁舌たるや、星さんは常識の分厚い外皮を鋭いメスで一瞬にして切開し、小松さんは固定観念の壁を大型ハンマーで打ち壊すような迫力。 しかも同時にそれが、知的に高度で、あほらしさにも充ち満ちており、おもしろくておかしくて、ひたすら笑い転げさせてもらった。 広告マンという、サラリーマン社会のなかでは自由度が高かった立場にいたとはいえ、やはり外皮や壁を作ってしまっていた当方、自身のそれも切開打破してもらえたのだ。 ともあれ、以下順不同ながら、星さんに関するエピソードを、思い出すままに書かせていただくことにしよう。


 デビューしてまだ数年という時期、ある雑誌に載せてもらったショートショートについて星さんから、「あれは実話ですか」と聞かれたことがある。 ぼくは「そうです。人から聞いた話をもとにしたんです」とこたえながら、内心では「へえっ。そんなことがわかるんですか!」と驚いていた。 いま思い出してみると、駆け出し作家の浅薄な感想とはいえ、「わかるんですか」とは実に失礼な話である。 口には出さなかったからよかったが、出していれば御不興をこうむったに違いない。 しかし次の例のように、口に出したあと、一瞬ながら「ひやっ」としたこともあるのだ。

 あるとき当方、自宅近くの薬局で「ホシ胃腸薬」という赤い缶を見つけて、思わず買っていた。 そして後日、「いまでも発売されてるんですね」と星さんに伝えると、星さん「ん」と小さく声をもらしたあと少しの間をおいて、「経営は別だけど」云々と、事情を説明してくださった。 星さんと星製薬の関係についてはすでに知っていたから、間があいた瞬間、「しまった!」と思っていたのだが、いつもの温厚な口調だったのでほっとした。 しかしそれは不快感を抑えてのことだったかもしれず、実はいまでも気にしているのだ。 もしそうなら、星さん、おわびを申し上げます。


 銀座のクラブで雑談中、星さんが「かんべさん。いま、忙しいですか」と聞いてこられたことがあった。 遠慮気味の笑顔と口調でだったため、瞬間パッと勘が働いたぼくは、「あっ。ショートショート集の文庫解説ですか」と問い返し、星さんのうなずきに、「ぜひ、書かせてください」と頼んでいたのだった。 年齢、キャリア、ランクの差が大きくあるのだから、普通に聞いてもらっても何らかまわないのに遠慮気味に笑顔でという、そこがまた「無茶苦茶ええ人や!」だったのだ。

 そして、その解説を書いて出版社に送り、後日校正刷りが送られてくることになったのだが、そのとき編集者が電話でいわく。 「星さんが読まれて、一箇所勘違いがあるようだとのことです。ゲラ刷りに注記しておきますので、御検討ください」
 さあ。それを聞かされた当方、「オチはばらしてないけど、何かとんでもない間違いか、失礼なことでも書いたのか」と、大きな不安に襲われていた。

 いまならメールで送るから、元原稿はパソコンに残っていて、その場で確認できる。 また校正刷りもPDFで来たりするから、すぐさまチェックできる。 しかし肉筆原稿を送り、紙の校正刷りが郵送されてくるという時代だったから、それが着くまでの一両日、小心者の当方、胃が痛くなるほど心配していたのだ。 そして、その結果は?

 星さんの作品をブランデーにたとえた部分があったのだが、その作り方に関する酒造用語の勘違い使用なのだった。 ほっ。 ちなみにこのあと星さんから、「ブランデーにたとえてもらったから」と、礼状とともに上等のブランデーを一本、送っていただいた。 御丁寧に、ありがとうございました。 なお、この解説を書かせていただいたのは、『かぼちゃの馬車』(新潮文庫。1983年10月発行)である。


 編集者からだったか、SF作家仲間からだったか、それは覚えてないのだが、こういう話を聞かされたことがある。 1970年代の後半から何年間か、SFブームと呼ばれた時代があり、数多くの雑誌が特集を組んでいた。 そのひとつに、軽いのか浅いのか、とにかく大物SF作家には依頼しにくいという雰囲気の特集があり、若手の面々が起用されたそうだ。 だから星さんにも依頼はなかったのだが、そしたら星さん、「そういう特集は依頼があっても断るけど、依頼してこんのはけしからん」と言われたという。 「星さんらしいなあ!」と、われわれは大笑いしていたのだった。

 銀座のクラブのママさんから聞いた話。 大企業の部長クラスに見える年輩ビジネスマンがとなりのテーブルで飲んでおり、その頭髪が何か妙に黒々としていたらしい。 すると星さん、思わずという口調で「それはカツラですか」と聞かれたという。 ママさん笑っていわくは、「相手の人はムッとした顔で、喧嘩になりかけたのよ」
 軽い酔いも手伝ってだろうが、年格好と黒々とした頭のアンバランスに不自然さを感じ、感じたことはそのまま確かめようと思われたのだろう。 相手の反応に、内心では「それが何か、悪いことなのか?」と憮然としておられたかもしれず、これもまた「星さんらしいなあ」と、聞かされたわれわれも大笑いしていたのだ。

 あるとき星さんが、スーツの襟に何かのバッジをつけておられた。 そこで当方、「星さん。それは何のバッジですか」と聞いたところ、「いや。別に何でもない。そこらにあったものをつけてみたんだ」とこたえてから、いかにも嬉しそうな顔で「サラリーマンに憧れてるんだ」と言われたので、吹き出していた。 サラリーマンが聞いたら怒るかもしれないが、こういう発想も星さんらしくて懐かしく思い出す。


 SF作家クラブの会合の席で、例によって知的に高度な雑談になったとき、ソ連(ソビエト連邦)社会の実情実態の話になった。 すると星さんが、「とにかくまあ、共産主義が駄目なことは常識なんだから」ともらされた。
 そしてぼくは団塊世代の一員であり、大学紛争まっただなかという時代も経験してきたから、共産主義についてもやはり考えさせられていた。 書籍から得た知識しかなかったものの、「どうも、理論と現実が合ってないようなんだけどなあ」という、もやもやとした疑問がずっと頭に残っていたのだ。 そこにこの一言だから、「ああ、そうなのか。やっぱり、あれは駄目なのか」と、腑に落ちた思いになっていた。

 星さんはその理由も根拠も示されなかったけれど、このときの当方の得心は完全に、「星さんがそう言われるのだから、本当に駄目なんだろう」という、知性と認識レベルに対する信頼がもとになっていたと思う。 ソ連が「行き倒れ」的に崩壊するのは1991年のことで、これはそれより10年ほども前の話である。

 別のあるとき、酒席で雑談していて視力の話になり、星さんも老眼が進んだとかで、読書用の眼鏡を買ったという話になった。 それをスーツの内ポケットから出して、ひょいという感じでかけられたのだが、あっと驚く似合い方というか、高級品の感があったので感服していた。 なぜならその直前、「文房具店で売ってるのを買ったんだ」と言いつつポケットに手を入れられたからで、その種の眼鏡が文房具店で販売されだしたのはぼくも知っており、それは当時の金額で300円だったか500円だったか、いまならまあ1000円という見当の大量生産品だったからである。
 以来当方、「高級品でも品性下劣なやつが使えば成り上がり的に見え、廉価品でも使う人が使えば高級品に見える」という説を、そのとおりだと思うようになった。


 星さんの写真は手元に何枚かあり、その1枚は実は当方の結婚披露宴に、わざわざ大阪までお越しいただいたときのスナップである。 しかもその日は国鉄(現JR)のストライキだったかでダイヤが乱れていたため、新幹線も大混雑し、星さんは車内で立ったまま来られたとのことだった。 いま思い出しても恐縮し、そもそも御来臨をお願いしたこと自体、「若気の至り、汗顔の至りではないか」と、なぜか決まり文句で自分を責める気持ちになってしまう。 星さん、申し訳ございませんでした。

 別の1枚は珍しい立体写真で、カメラマニアの先輩作家、高齋正さんが撮ってくださったものである。 ステレオカメラというのだったか、レンズが横にふたつ並んだやつで撮り、だからそのポジフィルムも現像後は、ふたつ並んだスライド式の画像になる。 それをフイルムと一緒にもらった簡易式のビュアーにセットし、明かりに向けて覗くと、くっきりとした立体画像が見えるのだ。

 そして星さんは白いクロスをかけたテーブルに向かい、コーヒーとケーキを前に、堀晃さん、山尾悠子さん、当方と一緒に映っておられる。 紺のスーツに紺のネクタイ。 理髪店へ行かれた直後なのか、髪がきちっと整えられている。 ただしこの立体写真、高齋さんの筆跡で1980年6月3日と日付は入っているが、どこで、何の会合のとき撮ってもらったものなのか、当方の記憶にはないのが残念である。

 もう1枚紹介すれば、こちらは撮影の時も所もわかっている。 1983年10月、銀座資生堂パーラーでひらかれた、「星新一さんのショートショート1001篇をねぎらう会」の会場で撮ってもらったもので、何と、星さん・かんべ・小松さんという、当方がまんなかに立ってのスリーショット写真(以下)である。 誓って言うが、偶然そんな立ち位置になっていただけで、決して仕組んで撮影してもらったものではない。 大阪弁で言うなら、「私、そんなオソロシイこと、ようしまへん」なのだ。




 晩年、ゆっくりしておられた時代のあるとき、新聞のエッセイ欄に星さんや小松さんの話を書かせてもらったことがある。 「自分がSF作家クラブに入れてもらって、いかに楽しく興奮しつつ、勉強させてもらえたか」という内容である。
 そしたら、大阪本社版だと思っていたのが全国版の欄だったようで、星さんがわざわざ礼の葉書をくださった。 そしてその冒頭は、「朝日新聞の夕刊で、私のことを書いていただき、ありがとう存じます」だった。 「ありがとう」でもいいわけだし、「ありがとうございます」なら御の字であるのに、「ありがとう存じます」。 感激した当方、この葉書はいまも保管してあるのだ。

 消印が薄れていて日付は読み取れないが、朝日新聞のエッセイは、1994年2月末から3月初旬にかけて5回書いたうちの1本である。 だから葉書の受付局は、その前年に転居された「高輪」になっている。 その後、口腔癌の手術があり、また別の長期入院もあり、遂に亡くなられたのはこの3年後、1997年の歳末なのだ。


 青山葬儀所での告別式に出席させていただいたとき、御親戚らしい女性二人の会話が耳に入り、「あのときシンイチさんは」とか「シンイチさんに聞いた話では」などと言っておられた。 これは当然本名の「親一さん」であるはずだが、当方「なるほど。星さんは内輪では、シンイチさんだったのか」と、印象を新たにしていた。

 ちなみに、『小松左京マガジン・第43巻』小松左京追悼号(2011年10月発行)には、秘書の乙部順子さんが書かれた「小松左京の最期」という報告記が載っている。 そしてその臨終の場面では、小松さんの本名は「実」だから、御兄弟らしい方が「みのちゃ〜ん」と呼びかけておられる。 それを読んだ当方、上記した「シンイチさん」を思い出し、「そうか。日本の戦後SFは、シンイチさんとみのちゃんのリーダーシップで発展してきたのか」と、これもまた印象を新たにしていたのだ。

 なお、星さんの告別式が終了したあと、SF作家仲間と近くのコーヒーショップに入ったのだが、そのとき向かいに座った森下一仁さんの眼が真っ赤になっていたことを思い出す。 ぼくも大阪までの新幹線のなかで、いまここに書いてきたようなエピソードをあれこれ想起し、ずっと鼻をすすりながら帰ってきたのである。


 最相葉月さんの大労作、『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社。2007年3月発行)を読んだときにも、ぼくは何度も涙していた。 その時期、ラジオ大阪で早朝ベルトの生ワイド番組を担当しており、そこには週一回のブックレビューコーナーもあった。 この本も発売直後にすぐさま紹介したのであるが、相方の女性アナウンサーから、「やっぱり、こういう本の紹介には熱が入るのね。 感動の思いが出てましたよ」と言われたことを覚えている。 まさに、感動したのである。

 一方、その最相さんの監修による「星新一 空想工房へようこそ」(新潮社。2007年11月発行)を読んだときには、感激していた。 星さんの公認弟子だった江坂遊さんの追想も収録されており、そこに星さんから彼への葉書が、写真版で掲載されている。 文中、「あせらず、ゆっくりやっていってください」という励ましのあと、「かんべ氏も数年がかりでものになったのです」という文言があったからで、「そうやって見ててもらえたのか」と、心のなかの星さんに御礼を申し上げていたのだ。


 そこで思うに、SF作家の第一世代諸氏のうち、これを書いている現在(2017年4月)、健在なのは筒井さんと眉村さんの二人だけで、他氏は順次鬼籍に入られた。 ということは、そんな時代になってからデビューし、SF作家クラブに入会してきた作家たちは、「神さま」たちとじかに話をさせてもらえる機会がなく、したがって直接その影響を受けるという「僥倖」には、恵まれなかったことになる。

 また、クラブの旅行は不定期に行われているが、あの大放談会は望むべくもない。 これは実に実に気の毒なことであり、「かわいそうだなあ」とさえ思う。 何か、あれに匹敵する場や機会が作れないものかとも思うのだが、その意味での超「大物」が新たに複数揃うという、そんな奇蹟は起きてないから、作れないのである。


 上に書いた、星さんが江坂さんに出された葉書の件は、後年、彼が編んだショートショート集『30の神品』(扶桑社文庫。2016年10月発行)のあとがきで、星さんに「作家では誰を目指しているのかと聞かれて、かんべさんとこたえた」ことが背景になっていたのだと知らされた。 江坂さんにそう言ってもらい、その彼への葉書で星さんにも名前をあげていただいた当方、「なのにおまえは、何をしておるのか」と自責の念にかられ、「馬齢を重ねるとはこのことか」と忸怩たる思いになる。

 若い時代、星さんに拙著『水素製造法』(徳間文庫。1981年2月発行)の解説を書いていただき、「才能が本物であると誰もが認めた。 とてつもない幅を持った作家であることも」などと、過分の誉め言葉を頂戴しただけに、なおさらである。
 せめてものことに、雑誌のショートショート特集やアンソロジー出版については、いくらでも協力させてもらい、星さんに喜んでいただけるような再活況の一助にと、本心から思う。 作家も編集者も、老いも若きも、どうかその思いの共有を。


2017年5月

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