私は小学三年生まで神童だった。
勉強も出来たしスポーツも万能、人前で自分の意見を大声で言うことにも、まったくためらいがなかった。
授業中に当てられてモジモジしている女子を見ては、「僕だったら校庭まで届くような声で正しい答えを言ってやるのに」などと思っていた。
要するに、想像力の欠如した無神経な子供だったのだ。
しかし四年生になると同時に短い神童時代は終わりを告げた。
「なぜ毎日重いランドセルを背負って学校に通わなければいけないんだ?」
「なぜ前へならえの集団行動をしなければいけないんだ?」
自我の芽生えに苦しみ始め、学校に行くことが苦痛になった。
小学五年生の秋、とうとう学校に行けなくなった私は、一人家で悶々とする日々を送っていた。
クラスメイトに見つからない校区外の古本屋をぶらぶらしていた時に星新一さんの新潮文庫を見つけ、「そういえば国語の教科書に載っていた“おみやげ”は面白かったなあ」という記憶から一冊買い求めた。
『妄想銀行』である。
とにかく面白かった。
家族が寝静まった夜中から読み始め、夢中になり、もう一編だけ、もう一編だけ、と読み進めるうちに気づくと空が白んでいた。
活字の文庫を一冊読みとおしたのも初めてなら、徹夜自体が初めての経験だった。
なかでも印象に残ったのが「鍵」というショートショートだった。
男がある日不思議な鍵を拾い、その鍵で開くものを探し求めるストーリーで、粒ぞろいの星新一作品の中でも屈指の名作である。
「この鍵で開くものを見つけさえすれば、万事が解決する。多彩で豊富な、はなやかなメロディーの流れる、信じられないようなべつな世界が、そこに展開するはずなのだと。」
「男はひたすら、それだけのために生きた。それが生きがいだった。いらいらしたり、胸をおどらせたり、がっかりしたり、自分に鞭うったり、さまざまな感情を波打たせながら生き続けた。」
「鍵」より引用
今にして思えば、学校に代表される世間に違和感を覚え、居場所を見つけられずにいた私は、鍵に合う鍵穴を探し続ける主人公に、自分を投影していたのかもしれない。
まっさらな朝の光の中、初めての徹夜にいくばくかの罪悪感を覚えながら、活字と想像力だけで人間は、海の向こうにも宇宙の果てにだって行けるという発見に胸の高鳴りを感じていた。
その後私は星さんのショートショートすべてを読みあさり、他の作家のショートショートに手を伸ばす過程で筒井康隆作品に出会い衝撃を受け……と、順調に、学校に代表されるまっとうな世間に通じる道を踏み外していった。
長じて角川書店に就職した私は念願だった文芸編集部に配属され、野性時代で「星新一にまなぶショートショートの作法」なる特集を企画したり、星さんのエッセイ集を復刊したりしている。
私が小説を好きになった原点には間違いなく星新一作品がある。
自分のことを神童だと思い込んでいたガキが世界との不調和に苦しみ始めた時、かたわらにいてくれたのは星新一のショートショートだった。
時々思うのだ。
四十歳近くなって二児の父となった今でも、自分の中には小学五年生のまま、部屋で膝を抱えて悶々としている少年がいるのでははないか。
その、世界との不調和に苦しむ少年が夢中になって読んでくれる小説を世に出すことが、自分の仕事なのではないか、と。
2019年8月
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