昭和二十六年一月、星新一さんの父・星一の葬儀で会ったのが最初の出会いでした。
星一と、私の祖父(星三郎)が兄弟ですが、親一さん(本名)は星一が五十三歳の時の子どもだったので、従弟関係の私の父とは二十八歳差。
家族の中では「親(しん)ちゃん」「親一」と呼ばれ、よく話題にもあがりましたが、それまで会うことはありませんでした。
父上の葬儀の時、親一さんはまだ学生でした。
小学校四年生だった私には、背が高く、縁取りのない眼鏡をかけた優しいお兄様のように見えたものです。
しかし、東洋一と言われた星製薬の御曹司だった親一さんが、いきなり会社経営に携わり、結果としては倒産し、その後始末まですることになり過酷であっただろうと思います。
そして、ゼロからSF作家として活躍するまでには、努力と苦労もあったことでしょう。
昭和四十年代のある日、家族に関わる話を聞かせてほしいと親一さんから連絡をいただきました。
家族の歴史や家系図などをあまり聞かされなかったようで、私が見聞きした家族情報を伝えました。
すると「ほ〜」「そうですか〜」と言葉少なではありましたが、熱心に耳を傾けてくれました。
以前、星一の胸像が故郷の福島県いわき市に建立された式典で、親一さんの講演会がありました。
服装にもこだわらず、重い口調で語り始めた彼をみて、正直少し残念に思うこともありました。
身長も高く、スマートで、顔も小顔で悪くない。オシャレにしたらさぞかし女性ファンも増えるだろう……と。
しかし、どこにいても、誰と一緒でも変わらない。
酒と駄洒落でまわりの人を和まし、時には番組や雑誌の取材で宇宙服を着るユーモラスな一面もある親一さん。
帰り際には「僕の本を持っていきますか〜?」と気さくにサインを書き、私が喜ぶとさらに数冊くれたこともありました。
星家の家訓「親切第一」から名付けられた名前通りの親切な人でした。
昔、伯母が彼の本を読み、「夢みたいなことばかり書いてるね」とつぶやいていたこともありました。
でも、その夢がショートショートの小説として、多くの読者に愛され、没後二十年を過ぎてもたくさんの人に夢を与えて、語られていると知ったら、伯母もあの世で苦笑いしていることでしょう。
「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」と言う言葉がありますが、「星新一」の名とともに夢を持ち続けられる平和な時代が続くことを祈ります。
2022年1月
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