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寄せ書き
菅浩江「星新一の切れ味」
SF作家 |
私は十年間、文科省で国語の教科書の審議委員をやっていた。
当然のことながら、なんども星新一のショートショートが掲載されているのを目にした。
短く、判りやすく、読みやすく、奇妙な話。
子どもに国語を教える題材としてはぴったりだ。
しかし、星新一の真の偉大さに気付くのは、長じてからだと思う。
成長するにつれ、星新一が高名な作家であるが故に、座していても周辺情報が手に入る。
例えば、エヌ氏という特徴的な主人公表記。
「誰でもない、イコール、あなたのことかもしれない」という、物語を普遍的にする意図で、ノーネーム、ノーバディのNを、日本語の中で目立たないようにカタカナにしたものだという。
彼や彼女といった代名詞でぼかすよりも焦点が合い、惻々と身に迫る感覚を孕んだ優れたやり方だ。
通俗性の排除はよく言われることで、具体的な地名や人名は出していない。
金額も具体的にいくらと書かずに、大金、などと描写する。
このことで彼の作品は、社会情勢が変化しても、いつまでも読み継ぐことができるのだ。
現実世界が変わることを前提として作品を書くというのは、いかにもSF作家らしいビジョンを自分自身で実行しているように思える。
星新一は生涯に千本以上のショートショートを書いたが、これも他の人には成し得ない偉業。
単にふわっとした掌編を書くのではない。
それぞれに奇抜なアイディアを盛り込み、短い枚数できちんとオチをつけている。
私が感動したのは、第千本目にあたる記念作品を各雑誌社が取り合いをしそうになったとき、星新一は同時に複数本を書き、同時期に掲載してもらい、どれが第千本目なのかが判らないようにしたという出来事だ。
読者や掲載誌への心配りとしては最高のアイディア、それこそ彼の短編のオチに使われていてもいいほどの機転だった。
星新一の作家性についてあれこれ口を挟むのは僭越だが、近年、「ああ、だから星さんはすごいのだ」とつくづく感じたことをお伝えしたい。
ここ数年、作家志望者向けに配信をしている。
主に構成についてだ。
優れたアイディアがあり、魅力的なキャラクターがいても、話の持っていきかた次第で輝いたり色褪せたりしてしまう。
せっかくの創作物だから効果的な見せ方をしましょう、と呼びかけている。
安全策としては視点人物は読者の誘導装置とするのがよい。
視点人物が見たり感じたりしたことが読者に伝わり、心に響く。
翻って、完全三人称、いわゆる神の視点は、情報出しのタイミングを見定めなければならず、また、キャラクターの心理をどこまで地の文として書き出すかの塩梅がやっかいだ。
しかし、気付いてしまった。
私はけっこう突き放すタイプの作品が好きだったのだ。
視点人物は心理を語らず、ただカメラとして状況を映し出すのみ。
そのときの感慨は読者に委ねる。
このほうが読者の感情に深く刺さる場合が多い。
脚本家だった向田邦子の作品群が好きなのもその理由だし、志賀直哉に気が引かれるのもそうなのだろう。
向田作品で好きなのは「かわうそ」であり、主人公の男が病を得て気持ちが落ちていく中で、家に籠もる良妻であったはずの妻が対外的に勢いを得ていく。
最後は、男が愛する庭付き邸宅をマンションにする計画をうきうきと実行する妻の前で、「写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。」と、男の死で読者を突き放している。
志賀作品は「城の崎にて」「濠端の住まひ」のあちらこちらが大変恐ろしい。
猫の死は溺死させられたであろう檻が日干しされているだけで匂わされるし、肉にするために打ち落とされた親鶏の頭は雛の遊び道具になっている。
私は星新一よりも向田や志賀をあとに読んだ。
なので、これらの「切りすてて考えさせる」感覚は、「ボッコちゃん」や「おーい でてこーい」と同じ戦慄だと震えた。
軽妙洒脱と言われ、社会風刺やユーモアに長けたと呼ばれた星新一。
けれど私の中では、読者を崖からドンとばかりに非情に突き落とす恐ろしい作家として位置づけされている。
国語教科書の審議委員在任中、教科書に星新一作品が掲載されるたびに、教室の先生方は、短いから読みやすい、だの、アイディアが面白い、だのという表面的なことのみを教えないでほしいとずっと思っていた。
どうか、子どもたちには、突き放すことによって読者が考えさせられてしまう手法、言葉にされないがゆえの恐ろしさ、を解説して、世の中すべての見方へと敷衍させてほしいと願っている。
若い頃、星新一に対する私の感想は、かっこよくて面白いかた、だった。
〈奇想天外〉誌などで、小松左京や矢野徹ら偉大なる先人たちと楽しげに対談し、原子力発電所に見学に行ったときのきわどい冗談や、会話の隙間に挟まれるキレキレの毒舌に笑いながら面食らっていた。
なのにお写真は、すらりと長身で、お顔も整っていらっしゃる。
大きな製薬会社に生まれ、奥様は元バレリーナ。
なんて素敵なんだろう。
私は、星新一さんに一度だけお目にかかった。
SF作家クラブが星岡茶寮で昼食会を開いたときだった。
漫画「美味しんぼ」の舞台のひとつとなった有名料亭だ、と気負い、和服を着ていった。
遅れていらっしゃった星さんとは席も離れており、私は勇気を振り絞ってお酌をしに行った。
記憶では、高千穂遙さんが私を新人作家であると紹介してくださったが、星さんはにこやかに杯を受けられるだけで、会話らしいことはできなかった。
それが最期だった。
生涯に一度でもお目にかかれたことは自慢であり、私自身が歳をとってからではあったが星新一の切れ味と文体を本当の意味で読み込めたのは自己満足的な誇りだ。
恵まれた出自と親御さんの会社を畳むご苦労と、ご自身の心身共の資質と小説家としての顔。
何が表で何が裏か、また、裏を裏のまま秘めてらっしゃったのか、それがあふれたがゆえの作風であったのか、私が軽々しく分析できることではない。
ただ、切れ味鋭い作品はずっと世に残るし、私を始めとする読者はずっと表裏のあわいを確かめようとしていく。
それこそが、明言しない突き放しを駆使する星新一の魅力であり続けるのだ。
2023年12月
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