後にミュージシャンになれたのが不思議なほど、昭和40年代前半からの中高生時代の僕は、熱心なSFファンだった。
ポオ、ウエルズ、バローズ、ブラウン、クラーク、オールディス、レム、そしてもちろん星新一などを読み、SFに夢中になった。
中一が終わった春休みに、SF同人誌「宇宙塵」を出していた科学創作クラブに入会し、制服のまま、大人に混じって、年一回催されるコンベンション、日本SF大会などに出没するようになる。
その頃のSF大会は、まだコミケなどを作った漫画系の後輩たちもおらず、生え抜きのマニア、大人の諸先輩方ばかりだった。
つまり、ガキは僕以外、いなかったのである。
まだ“おたく”という用語はなかったが、ただ、やたらと人のことを“おたく”と呼ぶ人たちだなあ、という気はした。
中学生でもガキ扱いはされず、一人前のSFファンとして扱われるので、生意気盛りの僕としては、参加していて楽しくて仕方なかった。
今日、後発のコミケには何万人も集まり、同人雑誌で食っている人もいるが、当時のSF大会は集まる人数も少なくて、せいぜい三百人程度だったと記憶しているが、会場に集まったSFファンの熱気はものすごくて、ゲストとして登壇するのが星新一、手塚治虫、円谷英二などという、今思い出しても気が遠くなるほどの豪華な顔触れで、僕は巨匠たちの講演を夢中で聞いた。
中でも星新一先生の、自身の文体を思わせる飄々とした話はとても面白く、確かそこで、トレードマークとなっていた有名なホシヅルの由来を話されたと思う。
もちろんその日、ファンたちは、星先生にサインだけではなく、自筆のホシヅルを描いて下さるようにおねだりしたものだ。
その後僕は、会員でもないのに、道玄坂の喫茶店カスミで開かれていた、SFマガジン同好会主催の“一の日会”にも出没するようになった。
この会には、ファンばかりではなく、星先生を始め、平井和正、豊田有恒、まだ学生だった伊藤典夫(もう翻訳のお仕事もされていた)、梶尾真治といった作家の方々も気軽に参加していた。
しかし、何故か、小松左京・手塚治虫先生などには名前も覚えられて可愛がって頂いたのに、星先生とは不思議とご縁がなかった。
その後、僕はミュージシャンとなり、下手な小説もいくつか書いてSF作家クラブに入れて頂き、日本SF大賞のパーティーなどでお姿をお見かけすることはあったが、ついにお目通りも叶わぬうちに、先生は星の世界へ逝かれてしまった。
残念無念。
一時期、星作品は、中学生の間で絶大な人気を誇ったことがある。
そのせいか、“SFやショート・ショートは、子供の読むもの”というイメージが世間に流布してしまった。
あの、簡素にして平明な文体も災いしたのかもしれない。
最近では、芥川賞を取った作家でもSFまがいの作品を書く世の中になったが、80年代ぐらいまでは、文壇はもとより、学校や家庭でも、SFはとにかく軽視されていたのだ。
とにかく、“軽い読み物”扱いされていたのである。
僕は内心「みんな、バカじゃないの」と思っていた。
彫琢に彫琢を重ねた結果、あの文体になったということが、どうしてみんな、わからないのだろう?
あのわかりやすい語り口こそが、ニコニコしながら世にも恐ろしいことを平然と言い、そして書く、“星新一の文体”、いや“正体”なのに!
ところで、僕の大好きな星作品は、初期短編群はもちろんのことだが、日本SFシリーズから出されたホラー長編『夢魔の標的』と、オフビートなミステリ長編『気まぐれ指数』である。
どちらも、今日の長大なエンターテインメント作品と比べると、随分スリムな作品だが、珍しい星新一の、長編の逸品である。
未読の方は、絶対に読むべし!
星新一の綺羅星のようなカラフルな作品群は、日本が世界に誇る“昭和のSFの至宝”として、これからも光芒を放ち続けるだろう。
2015年10月
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