最初に星新一の名を知ったのは、2004年(平成16年)小学二年生の総合学習の時間であったと記憶している。
ただし、作家としてではなく、郷土の先人である小金井良精の孫としてだった。
このような経緯もあって、私は星新一を歴史上の人物として認識していた。
そんなはるか遠い存在に思っていた星新一の作品をいざ読んでみると なぜだか、華やかで身近な人のように思われた。
初めて読んだ星作品は、『ボッコちゃん』の冒頭作「悪魔」。
先入観から、実際よりもうんと昔の作品だと勘違いしていたこともあって、その衝撃は言葉では言い表せないほどのものだった。
そしてページをめくれば次は「ボッコちゃん」で、さらに次には「おーい でてこーい」。
これらを読んで夢中にならないわけがない。
私は一瞬で星新一の虜になった。
一冊の中で何度も何度も驚かされ、次がどんな話になるかまったくわからないワクワク感は、それまでの読書体験にはない興奮だった。
星新一は、白黒写真の中の人から、色とりどりの物語の語り手、最も身近なエンターテイナーへと早変わりした。
この時点で既に星作品を楽しめてはいたのだが、叙情的な作品や風刺はまだ幼すぎてよくわからず、どんでん返しだけでない深い魅力に気付いたのは中学生になってからだった。
抑制された文体を保ちながらも、鮮やかで鋭い結末を両立させる。
斬新なアイデアと読者を誘導する巧みな話術、天才と熟練の技に支えられた職人芸だった。
また高校生になって読み直すと、それまで目の及ばなかった、情景描写など細部の文学的技巧にも気付けるようになり、自分がなぜその作品を面白く思うのか、逆にどのような文章が読者を楽しませるのかを、細かく分析しながら読み深めるようになっていった。
そして、この分析研究を精度よく行い、星新一という系を記述する法則を得ることで、きっとその振舞いを学ぶことが出来ると思った。
私には、星新一が一挙手一投足まで完全に理論に裏打ちされた名優に見えた。
そして大学生になり、初出誌から単行本、版違いの文庫本のすべてを収集してはじめた比較研究で得たのは、自らの作品の普遍性を最大化しようとする驚異的な 私の想像を遥かに超える執念の足跡だった。
時事ネタや地名はもちろん、助詞一語や句読点の位置、漢字のひらきに至るまで、少しでも違和感があれば修正を徹底する。
幼い私を魅了し、今もなお惹きつけてやまないあの文章は、ここまでの執着の成果だったのかと嘆息するとともに、あまりに安易な過去の自分を恥じた。
一方で、作品の物語そのものに注目してみると、先ほどの印象からまたさらに異なる姿が浮かんでくる。
同時代に活躍した日本SF御三家を比較すると、それぞれの特徴が浮き彫りになる。
愚かな人間を嗤う筒井康隆。
愚かな人間を導く小松左京。
そして、愚かな人間には、はじめから期待してなどいなかった星新一。
それでも星新一は、自らの作品がいつまでも、どこででも読み継がれていくよう、改定を幾度となく積み重ねていた。
人に期待しない星新一と、自らの作品が人に読み継がれていくことを願った星新一。
私は星新一を、まだ知らない。
2022年6月
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