わたしのSFの第一歩は、家の書庫だった。
ぎっしり並べられた本棚から、または引っ切りなしに家に届く献本から、好きな本を好きなだけ取り出して良かった。
手当たり次第、大人向けも子供向けも、ノンフィクションもフィクションも。
そもそもジャンルという言葉を知らなかったので、片っ端から全部読んだ。
けして満腹にならない人が、世界中の料理が並べられたビュッフェ会場に放り込まれた状態。
とにかく端から食べてみる。
満腹にならないのをいいことに、口に合わなくても、とりあえず食べる。
美味しかったら、その近くにある料理も試して、おかわりもする。
そうして一日に三冊も五冊も読んでいるうちに、どうもここにまとめてある本がわたしは好きみたいだぞ、というテーブルが見つかった。
今でも覚えている。
部屋の左側、一番奥の角っこ。
青い表紙と、ピンクの表紙と、白と時々オレンジの表紙。
文庫本と呼ばれる、少し小さな本が集められていた。
SFという名前を覚えておくと、自分の好きな本に出会えるらしいと知って、それから今度は本屋さんや図書館でSFを探すようになった。
だけど、今思い返すと、その中に星新一作品はなかった。
翻訳ものが中心で、日本のSFを読んだ覚えがない。
だからわたしが星新一や小松左京や筒井康隆に出会うのは、だいぶ大きくなってからだった(半村良だけは知っていた。
中学の親友のお父さんだったから。
でもその時も「親が作家だと、いろいろ大変だよね」と言い合うくらいで、半村さんの本は読まなかった……)。
他の人たちのように、子供の頃に星新一のショートショートに出会って、その読みやすさや爽快な結末、ユーモアとペーソス、そしてちくりと残るシニカルな後味に魅了されるSFの王道を歩んでこなかった自分には、ちょっぴり引け目を感じている。
でももしかしたら、だからこそ見えてきたものもあるのかもしれない。
大人になってから読んだ星新一は、怖かった。
もちろん面白い。
だけど、どんなに愉快で楽しくて可愛くてほっこりするお話を読んでも、底に怖さがあった。
この人は、どこまで見ていたんだろう。
どこまで見ようとしていたんだろう。
全く隙も疵もないこの一本を書き上げるために、どれほどの試行錯誤と準備があったんだろう。
無数の糸の中から一本だけを選び取る、その冷静な視線に圧倒される。
SFは未来を予知するためにあるのではない。
SF作家は予言者ではない。
無数の未来や過去を描き出し、それを読んだ人に、そうかもしれない世界を考えさせ、備えさせること、それがSFの役割だと思っている。
わたしにとってのSFはサイエンス・フィクションでもあるけれど、何よりスペキュレイティヴ・フィクションなのだ。
確かに、星新一作品には、未来を先取りしたような先見的なテーマもある。
しかし、それは全ての未来に向けた投げた球の中の、どれかが当たっただけのこと。
その無数の球を、余人には及びもつかないところまで投げる。
そのために、どれほど多くのことを考え、学び、試行したのだろう。
だいぶ遅れたけれど、星新一作品新入生はゆっくり学んでいる。
まだまだ読むべき作品はある。
人生の楽しみとしてここまで取っておいたんだよ、とちょっと憎まれ口も叩いてみたりして。
ちなみに、わたしが星新一作品の中で好きなのは『ようこそ地球さん』収録の「たのしみ」。
現代の農村が舞台で、宇宙人も未来的なガジェットも出てこない。
でもこれほど叙情性と静かな美しさに満ちた作品もないと思うのだ。
台詞は必要最低限、地の文で丁寧に濃密に紡がれる自然描写、時に生々しく迫ってくる空気の厚み。
小さな村の美しさ、静けさ、懐かしさ、そこから最後のぞくりとくる結末との対比が鮮やか。
星作品が時を超えて愛される普遍性の理由には、固有名詞を避け、時代や場所を特定しないルールもあるが、この作品に見られるような、誰もが心の底に持つ思いに触れるからだと思う。
2023年5月
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